共謀罪法案の審議が佳境を迎えている。表現や思想の自由を著しく侵害する可能性があることや、法律の適用範囲が曖昧で公権力の恣意的な解釈を呼び込むことが危惧されるなど、この法案の危険性は誰の目にも明らかにも関わらず、与党は今週内での採決にこだわる姿勢を崩さない。

 周知の通り、この共謀罪法案には海外からも問題が指摘する声が相次いでいるが、安倍政権は逆ギレのような回答を投げつけそれらを無視。「平成の治安維持法」とも呼び称せられる法案の中身を吟味する姿勢すら見せず、あくまで強行採決へと突進している。

加計学園をめぐる問題について野党は集中審議を要求しているが、それには応じず、共謀罪を強行採決したら早々に閉会させるものとみられている。端的に言って「やりたい放題」。我々はいままさに、民主主義が死ぬ瞬間を目の当たりにしていると言っていいだろう。

 共謀罪に関しては多くのメディアから反対の声が相次いだ。本サイトでも「週刊女性」(主婦と生活社)が2017年4月25日号で「共謀罪がやって来る!──監視社会ニッポンの行方」と題した10ページにおよぶ共謀罪の解説特集を組んだことを記事にしているが、今回さらに映画雑誌の老舗「キネマ旬報」も共謀罪に異議を唱える特集記事を掲載した。

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「キネマ旬報」17年6月下旬号では、「来るべき世界への懸念──治安維持法と映画、映画人」と題して3ページの特集を展開。映画評論家の轟夕起夫氏が黒澤明監督『わが青春に悔いなし』や山田洋次監督『母べえ』といった、実話を基としながら治安維持法下の日本を描いた映画を紹介し、治安維持法がいかに人々の自由を奪い、法の拡大解釈の果てに権力に楯突く者を逮捕する道具に変わっていったかということを解説している。

それは、共謀罪が成立しそうなところを目の当たりにしている私たちにとって、歴史上に起きた過去の出来事などではない。これから起きようとしていることだ。轟夕起夫氏はこのように綴る。

〈隠蔽体質は、今も脈々と続く。「共謀罪(テロ等準備罪)」が治安維持法と変わらなければ、時の政権に対して異議申し立てをする者は“普通の一般人”から外され、“非国民”として扱われるに違いない。その兆候はすでにある。特高などなくても国民同士が感情的にそれをやっている。

見事な相互監視社会であり、密告社会。スティーヴン・スピルバーグ監督の「マイノリティ・レポート」(02)やフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督の「善き人のためのソナタ」(06)を、これからも純粋に映画として楽しむことができるのか……〉

森達也や周防正行も共謀罪成立後に起こる表現の萎縮を危惧

 この特集を担当した「キネマ旬報」編集部の前野裕一氏は、17年6月8日付東京新聞のインタビューにて、いま敢えてこういった記事をつくった理由についてこのように答えている。

「こんな法律が成立したら、社会を告発する映画が作られなくなるのではないかという危機感があった」

「共謀罪は『平成の治安維持法』と呼ばれる。じゃあ実際に、治安維持法の時代とはどうだったのかを映画から考えたい。二度とあってはならないと、映画を作った先人からのメッセージを受け止めるのは今をおいてない」

 彼らが述べている通り、共謀罪が成立すれば、権力に対して批判的な表現は世に出にくくなるだろう。そういった萎縮は、文化・芸術にとって大きな打撃となる。

 だから、共謀罪に対して反対の声をあげる映画関係者は数多い。4月7日に日本ペンクラブ主催イベント「共謀罪は私たちの表現を奪う」に登壇した森達也監督はこのようにスピーチした。

「映画監督とか漫画家とか小説家とか大学教授とか写真家とか、僕らにとってみれば言葉とか思想は、表現は、大切な商売道具です。だからこれは由々しき問題です。看過できません。

 一般の方には関係ないかもしれない。そう思う方が大半でしょうね。でもそうじゃないんです。漫画が非常に沈滞してしまったり、あるいは、政権に気配りしている映画ばかりつくられたり、小説も批判がまったくできなくなる。そうした状況を考えてください。誰が損をするのか、誰が得をするのか」

 共謀罪は、たとえ成立後すぐに逮捕に結びつかなかったとしても、クリエイターたちに「こんなことを言ったら、もしかしたらいずれ逮捕されるかもしれない」という恐れを抱かせることで、確実に「自主規制」を招く。それも大きな問題だ。周防正行監督は17年4月18日付朝日新聞のインタビューでこのように危惧を語っている。

「政府は否定するだろうが、権力に都合の悪い運動や主張をする人を立件する武器を手に入れることになる。

 時の政権に声を上げることがはばかられる社会になるだろう。表現をする立場には確実に影響が出る。例えば「反原発」や「基地問題」をテーマに、政府を批判する映画を準備するとどうなるのか。

法案では「組織的犯罪集団」が捜査の対象とされる。撮影は監督を中心にスタッフが組織的に動く。「治安を乱すおそれがある」と、日常的に情報を集められるのではないか。

 権力としては、新設する罪を使って有罪にしなくてもいい。「話を少し聞きたい」と任意の捜査をするだけで、萎縮効果は抜群だ。「私たちが何を考えているのか」を国家が絶えず監視する社会になる。密告や自白といった証拠に頼らざるをえず、冤罪は確実に増える。「映画監督としてどう思うか」の前に一人の人間として許せない法案だ」

ケラリーノ・サンドロヴィッチが吐露した権力に目をつけられる恐怖

 そういった萎縮や自主規制の機運はすでに始まっているとも言える。劇団・ナイロン100℃主宰で、『1980』や『グミ・チョコレート・パイン』『罪とか罰とか』といった映画の監督務めるなどしているケラリーノ・サンドロヴィッチは、そういった萎縮につながる心情を吐露した。

 彼は5月15日に〈断固、サミットへの手土産なんかのために共謀罪を強行採決されてはならない。賛成の方もどうか急がず慎重に。納得のいく根拠はなにひとつ明確に示されていないのだから。とんでもない未来が待ってるかもしれないのだから。〉とツイート。

その文章は本サイトも含め多くのメディアに引用されたが、そのようにして自分の発言が広がっていくのを見た彼は、これによって、〈「監視対象」のリストに入れられやしまいか〉という恐怖を覚えたと、17年5月25日付東京新聞のコラムで告白したのだ。

〈ツイッターで共謀罪反対等を訴えていると、気がつけば新聞やウェブのニュースに「著名人たちがSNSで発信する警鐘」なんていう見出しで、つぶやきがそっくりそのまま転載されていて面食らう。

 いや、別に、ひとこと許可をとってほしいとか、そんなことを言いたいわけではない。問題は、記事を目にしてドキリとした自分にある。ドキリとしてる自分にまたドキリとした。どうして今自分は、この程度のことにドキリとしなければならないのだろう、と。

理由は明白だ。こうしたことがきっかけになり、これが積み重なっていくことで、いつの間にか「監視対象」のリストに入れられやしまいかという、以前なら絶対感じることのなかった類の恐怖を感じたのである〉

 共謀罪が成立してしまえば、このような萎縮は日常の光景となることは間違いない。また、そういった自主規制は芸術表現だけでなく、報道においても起こるだろう。なんびとたりとも権力を批判することはできなくなり、政府は独裁・暴走を強化する。

共謀罪が生まれた後の日本はそういったディストピアになるのだ。治安維持法によって言論や思想が弾圧された戦前の日本のように。

 いったん共謀罪が生まれてしまえば、もう二度と元に戻ることはできない。だからこそ、水際で止める必要がある。これ以上の政権のやりたい放題を許してはならない。
(編集部)